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花森家具

松本民芸家具の理念

家具の歴史と文化を伝えます。

松信州・松本の家具作りには400年を超える歴史があります。
松本城を核とした城下町の商工業として家具作りが始まったと言われています。

江戸から明治にかけて松本地方で盛んに作られていた家具に「帖タンス」がありました。
堅牢な作りのタンスで、これに取り付ける金具の製造に関わる職人が軒を連ねていたと言います。

時代の趨勢、そして、大正末期からの市の木工業復興策が功を奏し、昭和初期に至って松本市は
全国屈指の家具産地に発展しました。当時作られていたものとしては卓袱台や茶タンスといった和家具でした。
その後昭和初期から戦争前後の混乱の中、家具の生産は休止状態となり、産地としての活気は失われてしまったといいます。
松本民芸家具創設の志には、当時の状況を鑑み「松本の木工業を復興したい」という強い思いと決意があったのです。

木の生命を生かした家具作り。

松本民芸家具で使用する材料はすべて日本で育った木。 ミズメ、ナラ、ケヤキなど、国産広葉樹を使用しています。

「ミズメ」という木の名前を聞いたことがありますか? カバノキ科に属するこの木は、梓という別名をもっています。
古くから寺社に奉納される梓弓(梓御弓)の材料として知られ、
そのほかにも浮世絵の版木に使われていました。
粘りのある堅い木で、虎斑(トラフ)と呼ばれる美しい縞模様が特徴。
鉋で仕上げると艶が出てきて、さらに使い込んだものには、 なんともいえない味わいのある艶感が生まれます。

日本民芸運動

栁宗悦(1889~1961)、濱田庄司、河井寛次郎によって提唱された「民藝」とは、「民衆的工藝」を略した言葉です。
木喰仏研究で全国各地を訪ねるうち、栁宗悦はそれまでは顧みられることのなかった日常生活品の中に宿る美しさに着目するようになります。
その土地ならではの風土・風習に基づき、そして日常の生活の中で必要とされる用途から自然に生み出された形、色、模様。

そして奇をてらうことなく、かといって美を追求する求道者としてではなく、それをただ実直に作り続ける名も無き工人たちの仕事。
そのような工芸品の中に自然と宿る美しさ、つまり「用の美」を見出したのです。
生活様式が均一化に向かおうとする時代、栁の収集した民藝には地域の風土、風習が色濃く反映されていたのです。
そして、各地でかつて作られていた民藝の研究、そして今も作られ

ている民藝品の発掘と普及、そして新しい民藝(新作民芸)の推進を目的とした民藝運動が展開されました。
民藝運動には、栁、濱田庄司、河井寛次郎をはじめとして、バーナード・リーチ、芹沢けい介、棟方志功など錚々たる文化人、また企
業人が多数賛同し大きな文化啓蒙運動となったのです。

 

 

▶︎日本民藝館HPへ

 

 

 

日本民芸運動

松本には、白樺時代の繋がりもあり大正期より栁宗悦が度々訪れました。そのなかで、三代澤本寿(染色家、芹沢けい介に師事)や、丸山太郎(後にちきりや工藝店、松本民芸館を開く)らが民藝運動に参加、民藝協会長野支部を設立、そして旧友であった池田三四郎(1909~1999)を民藝運動に誘います。昭和23年、京都で開かれた民藝協会全国大会に参加した池田三四郎は、栁宗悦の講演「美の法門」を聴く機会を得て大いに感銘を受け、これを機に民藝運動に参加することになります。
松本で建設業に携わっていた池田三四郎は、栁宗悦の勧めもあり、松本木工業の復興に携わることを決意します。

中でも特に注目したのが、栁をはじめ当時の民藝同人たちがその美しさ逞しさから収集していた西洋の民芸家具、中でもウィンザーチェアです。
ウィンザーチェアは名前の由来がイギリス・ウィンザー地方など諸説あり、定かではありませんが、およそ17、18世紀頃のイギリスで作られ始めたイスで、庶民のイスとして作られていたものがやがて貴族の間にも広まったという独特の文化をもつイス。ウィンザーチェアでは背柱や背棒、脚など、すべての材料が座板に対して角度をもって差し込まれており、それが全体として長い間の使用に耐えうる構造となっています。和家具の生産で名を馳せた松本の家具づくりではありましたが、多く

の職人が洋家具を作るのはもちろん見るのも初めてという状況。池田三四郎は古い民芸家具を収集し、職人とともにその構造を徹底的に研究、そして試作を重ねていきます。志ある職人たちの賛同を得て、また民藝同人たちの協力もあって家具製作は徐々に軌道にのっていきます。特に栁宗悦、濱田庄司、河井寛次郎、安川慶一、栁悦孝、バーナード・リーチ他民芸運動の先達が幾度となく松本を訪れたり、書簡を交わすなどして技術的な指導や意匠指導などを行い、また精神的な支えにもなって今日の松本民芸家具の基礎が築かれていきました。

 

 

中心人物の紹介

池田 三四郎(いけださんしろう)

1909年長野県松本市に生まれる。旧制東京高等工芸学校(現千葉大学)写真科卒業。東京にて建築写真業を自営。1948年日本民芸運動に参画して柳宗悦に師事し、「用の美」の思想を、故郷の地で主宰する松本民芸家具で実践。それは北アルプス山麓に自生するミズメ桜や欅を材とし、松本の家具職人の中に脈々と受け継がれていた伝承技術を生かすこと。百年使ってもビクともしない堅牢さは、戦後ひろがった「使い捨て」の風潮に抗するものであり、欧米のアンティーク家具の逸品に学んだ和洋のデザインは、流行を超えた美として高く評価され広く愛用されている。
(株〉松本民芸家具・(株〉中央民芸代表取締役会長、日本民芸協会常任理事、長野県民芸協会会長、松本民芸生活館館長、通産省伝統的工芸品産業審議会委員、松本市文化財審議委員長、松本デザイン交流会議会長などを歴任。
著書に「松本民芸家具」「信州の石仏」「民芸の家具」「李朝木工」「木の民芸」「石の民芸」「金の民芸」「三四郎の椅子」など。

柳 宗悦(やなぎむねよし)

思想家。民芸運動創始者。東京都生まれ。1913年東大文学部卒。多くの日本人が根強い欧米コンプレックスとアジア蔑視感情に支配されていた時期に、さまざまな文化的価値を無意味にランクづけることなく捉える独自の審美眼を持ち、次々と新しい美を発見し、しかもその美の由来を宗教的深さをもって理論的に解明した。その契機となったのは、W.ホイットマンの思想であり、バーナード・リーチとの交友であったといわれている。無名の工人の生み出す日常的で健康な美に目を向け、日本の文化的価値を見直す中で、1926年浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を起こし、理論の確立と運動の実践に努める。1936年日本民芸館を設立し館長に就任。1931年雑誌「工芸」を創刊、近代化の過程で消滅しつつあった地方の手仕事を保護・育成。生涯にわたる思想と行動は、異文化共存の重要性を示唆するものである。1957年文化功労者。著作は多数あり「柳宗悦全集」22巻に収められている。

浜田 庄司(はまだしょうじ)

陶芸家。神奈川県川崎市生まれ。1916年東京高等工業学校(現・東工大〉卒。在学中に2年先輩の河井寛次郎を知る。卒業後は河井のいた京都市立陶磁器試験場に入所し、一緒に釉薬の研究を行う。1918年東京でバーナード・リーチと出会い、1920年リーチの誘いで共に渡英し、向こうで築窯・作陶した。1924年英国から帰国し、京都の河井邸に滞在して河井と柳宗悦を結びつけ、栃木県益子に移った。1925年、柳、河井と「民芸(民衆的工芸)」の語を創案し、民芸運動の推進者となった。以来奇をてらった作風を嫌い、焼き物本来の健やかで堅実な作品を生涯にわたって制作した。釉薬も益子既存のものを使い、彼だけの特別の秘釉はなかったが、これを駆使し、独自の表現や手法を創案したのである。1955年民芸陶器により人間国宝に認定され、1962年に柳のあとを継ぎ日本民芸館館長に就任。1968年には民衆的工芸品の美しさを国際的にひろめた業績により文化勲章を受章。海外でも最も著名な日本の陶芸家で、米国ミシガン大学、英国ロンドン王立大学より名誉学位を受けている。

河井 寛次郎(かわいかんじろう)

陶芸家。島根県安来の生まれ。山陰の豊かな自然と文化の中で少年期をおくった。東京高等工業学校(現・東工大)で窯業科学を学び、1914(大正3)年卒。京都市立陶磁器試験場の技手となる。同試験場に2年後に入所した浜田庄司とともに釉薬の研究を重ね、作陶の技術的支柱とした。その後京都五条坂に「鐘渓窯」を構えて独立。1921年の作陶展で天才陶芸家と称された。しかし1924年に英国から帰国した浜田庄司を介してはじまった、柳宗悦との交流により雑器の美に目覚める。翌年柳、浜田とともに「民芸(民衆的工芸)」の語を創案し、作風も技巧性を払拭した素朴で親しみのある「用の美」へと展開した。1937(昭和12)年パリ万博でグランプリを受賞。1957年ミラノトリエンナーレ展でグランプリを受賞。作風はさらに器の形にこだわらない、自己の創意の赴くままの境地へと進んだ。「化粧陶器」「いのちの窓」の著書がある。「鐘渓窯」は現在河井寛次郎記念館となっている。